天は自ら助くる者を助く

自分の好きなものに正直に生きていたい。

大学のカウンセリング

今日は大学のカウンセリングルームに行ってきた。若くて可愛らしい先生だった。ただ今の現状をひたすら吐き出して、聞いてくれる、それだけでとても安心するものだ。なんせ、家で母親に悩んでることを言ったところで強くなれだのおかしいだのしか言われないのだから。

昨夜、現状をどうにかしたいという一心で、母に今自分が思っていることをほぼすべて打ち明けた。本当は「あまり元気がないから部屋に籠らせてほしいこと」「私の部屋に入るときはノックをして入ってほしいこと」の二点を伝えるつもりだったが、母が話しかけてきた勢いでぶちまけた。

結果、今の時点では分かりあえることはなさそうだと思った。

思ってることを言ったら家が崩壊すると思うって前置きした後に、母は崩壊しないよって言ったけれど、話し終わった後にぽつり「ママ出ていこうかな。」って呟いた。まさしく崩壊の兆しだった。言ってることがブレブレだ。

ただ、聞いて、辛かったんだね、ごめんね。ってその一言が欲しかっただけだった。ぶたれて痛かったことや、物が飛んできて恐ろしかったことなどが最近よく思い出されて落ち着かないことなど、トラウマになっていたから、それをただ受け止めてくれれば良かった。いつだって母は話は聞いてくれるものの、じゃあどうしたらいいの?という解決策をいち早く見出そうとする。どうしたら私のこのもやもやが晴れるか分かっていたら私だって実践してるよ!と思う。よく言えば行動派、悪く言えば、行動次第で人は変われるという根性論の持ち主だと思う。そのくせ心配性だから、自分はなかなか行動に移せないように私には見える。(別居の件しかり)

あと、母が仮に解決策を知ったとして、また私の前に早回りして私の問題を片づけたら、また私の無力感が増してしまう気がしている。その点でも、やっぱり聞いてくれるだけで良かった。感情に寄り添ってもらうという経験が乏しすぎて、他人の気持ちも頭で考えてしまう癖がついてしまったのではないか。結果、人間関係を築くということは私にとって神経をすり減らす作業になっている気がする。

 

お風呂に入りながらよくよく考えてみたら、今まで20年以上、家族の期待を一身に背負いながら、たまに反抗することはあっても結局従順でいる、聞き分けのいい良い子ちゃんでいて、馴染めない学校という集団で孤独と戦って、ここまで体がおかしくならなかった自分を褒めてあげたいくらいだった。大きな成果を上げる力はなかったけど、こんな異常な環境でぐれなかっただけマシぐらいに思ってほしい。(自分くらいしか自分を褒めてやれないのでたまには許してください)

心理士さんにも言われたことで気づいたことは、「自分の考えで現状を変えようと行動する力はある」ということ。行動力はあるが継続力はないから、今後身につけていけたらいいな。