天は自ら助くる者を助く

自分の好きなものに正直に生きていたい。

明るい希望を簡単に持つことは絶望への一途

昨日、2週間ぶりにクリニックに行ってきた。

先生に「どう?」って聞かれて、最近の調子をつらつらと話したが、正直話した内容はあんまり覚えていない。

昨日は学校に行く用事があったのだが、行ったはいいものの予定されていたセミナーが知らぬ間に中止になっていたようで、結局学校に行っただけになった。そういうことが多々ある気がする。

でも、友達に会って他愛もない話をする時間はやっぱり私には必要だった。近況報告をしたり、趣味の話で盛り上がったり。話をしなくても、傍にいてくれる人がいるだけでもほっとした。その一方で、私の暇な生活ぶりに呆れている様子の人もいて、このまま離れて行っちゃうのかなって、少しだけ不安になった。

 

クリニックに行く前、私は不安に効く漢方薬を処方されて飲んでいた。最初のうちは、持ち歩いてるだけで、安心感はあったが、実際に効いているという感覚は全くなく、心のもやもやは前に記事にしたように止め処なく広がっていった。よくなっているという実感はないと話した瞬間、「抗うつ薬」を処方された。ああ、私はうつなのか、と妙にすんなりと受け入れた。診断名としてうつです、ときっぱりと告げられたわけではないから、本当にうつで寝込んで苦しんでいる人の前では同じうつだなんて言えないかもしれないけれど、病の入り口には立っていて元気溌剌な人達とはやっぱり一線引いたところにいるのかもしれないと思った。

私の悪い思考の癖の一つに、少しの変化を大きな未来への希望へ結びつけてしまう癖がある。例えば今回、抗うつ薬が処方された時、これを飲んでポジティブ元気いっぱい人間になれれば、成功ストーリーを書いて、同じ境遇で苦しむ人たちを救えるかもしれない!と未来の明るい妄想をしてしまったり。いつも何かを始めたタイミングで今回こそはこれで自分を変えて人生変えてやる!みたいな変な野望がむくむくと沸き上がり、大体1か月くらいもすると、やっぱ自分には継続は無理だな…と思って、自分の無能さに自己嫌悪して、やっぱり自分には何もないと悟って病む。何かを成し遂げなければ自分に価値がないと思ってしまうが故のこの思考なのだと思う。小さな変化を誇張することなく、ただ「変化」として受け入れ、それを継続していくこと自体に意味がある、ということを思考する癖を付けていきたいなと思う。明るい希望にしろ大きな野望にしろ、ふとした時にぽんと現実味を帯びて湧き上がってくるものなんだということは、多くの本でも言われていることである。大事なのは、変化するということに対して諦めてはいけない。