天は自ら助くる者を助く

自分の好きなものに正直に生きていたい。

自分をそのまま受け入れてくれる場所

私は英会話教室に通っている。もともとの動機は今後社会人になって英語が話せたら少しは有利かなあとか何か特技が欲しいなあとか、今考えたら承認欲求の為と言っても過言ではない、ぼんやりとした理由からのスタートだった。

 

今日は実習の後にレッスンがあった。ほぼ週2コマのペースで通っている。

今日も今日とて、薬局での一日は楽しいとは言えない時間であり、ここのところ終わった後は片頭痛に悩まされている。(マスクの長時間着用で酸素不足になっているのもあると思うが)

その実習が終わった後に英語のレッスンに行くのは精神的にかなりしんどいものがあった。スタバで時間をつぶしながらも片頭痛は続いて、どんどん行くのはだるくなってくる。だけど、重い腰を上げて何とか参加した。

 

結果、行って正解だった。レッスンの後、何とも言えない開放感があった。

英会話のクラスは何でも発言してみることがまず第一に重視される。普段から人目を気にして、いちいち自分の発言おかしくなかったかな?とか相手の反応を見てバカにされてないかな?とか考えているうちに疲れてしまって、人と関わるのが怖くなっている私にとって、自由に何を言っても変な顔をされない場所がとてもありがたかった。何かを発言するだけでナイストライ!と言ってもらえるから、なんか発言しようと必死で考えることが出来る。肯定することってそれだけで人に絶大なる安心感を与えることが出来るのだなと身をもって感じることが出来た。その安心感を与えるには、先生の知識量や人柄を反映している気がするから、先生の頑張りにただただ脱帽である。

 

今日の帰りの車の中で、母親に人と話すのが苦痛だという話をした。人からバカにされているように感じるとか何を花入たらよいのかわからなくなるとか周りの人たちがみんな完璧に見えるとか。すると「そんなのは気のせいだよ」と言われた。

確かに気のせいなのかもしれないけれど、そう思えたらこんなに悩んでいない。実際にここまで悩んでいるのは事実なのだから、少しでも辛いねって言ってくれるだけでも心が軽くなる気がするのに、感情を否定されたみたいでそれこそ辛かった。こんな風に考えていること自体がおかしいのかなって思ってしまった。これもまた自分勝手な被害妄想の癖なんだろうけど。人に期待するなということは分かっているけれど、一人くらい頼れる人がいてくれたらだいぶ楽になれるきがするのになあという自分勝手なつぶやきである。

鬱屈と少しの灯

今日はダントツに調子が悪い。

うつの最底辺みたいな思考回路をぐるぐるしている。

 

こんな家庭環境じゃなければこんな苦しい思いをせずに済んだのに、とか。

もし、このうつが治ったとしても、人生で積み重ねてきた根本の思考が変わらなければこの先ずっと生きづらいんじゃないか、とか。

 

実習期間2週目にして、実習先に行くのがしんどい。

朝早く起きて、エネルギー補充のためにコンビニのおにぎりを駅のホームの電車待ちの時間に口の中に無心に詰め込んで、何とか取り繕って、薬局のドアをくぐるときには気持ちを60%くらいに立て直して、ロッカールームで実習を一緒にやっている同学年の女の子と笑顔で挨拶して、そこから約3時間、人の目を気にしながらなんとかやるべき課題をこなして、やっとお昼休みになっても同期は一緒にお昼を食べるから本当に一人になれることはあまりなくて、でも話すことが苦痛でしかないから何となくぼーっとテレビを見たりスマホ見たり寝るふりしたりして何とか耐え忍んで(毎日話すことなんてなくないですか?)、その間の同期のつまらなそうな顔が余計にしんどくて、たまに話しかけてみたりしても反応が薄かったりすると、益々落ちこんで、ずっとこんな調子で人間関係築くのが下手くそなままだったらどうしようとか考えちゃって、そうこうしてるうちに午後の実習が始まって、またなんとか4時間くらい耐えて、やっと帰りの時間だけど、帰り道や電車も一緒だから自宅に帰るまでが実習です!って感じで、家に帰ってきてもスマホ見て永遠にうつ病毒親のこと調べてちょっと希望が見えたり落ち込んだりして、ご飯の時もおいしいけどそれを伝えるために親に言葉を発する元気もなくて、お風呂で気持ち紛らわせるために読書で少し現実逃避して(今日は引き続きネット徘徊してた)、やっと今自分の部屋でこうしてブログを書いているわけであります。

 

こうやって書くと、単調な一日に思えても、何となく気持ちに変化が合ったり、厚みが増す気がして、やっぱり書くって必要なことなんだなって痛感してる。

誰が見てるわけでもないとは思うけど、自分のうちの世界に留めておくだけだと永遠に渦巻いてどんどんどす黒くなっていく気持ちを外の世界に吐き出すことで、一瞬だとしても体の中が解毒されるのかもしれないね。

 

今日も一日生きてて偉い。世界中の誰よりも頑張りました。

明日も一日、生きていられますように。

 

 

追伸

久々にテレビでリアルタイムで神宮寺くんを見ました。

お宝を探すバラエティだったんだけど、10人も出演者がいる中、結構な頻度でクローズアップされててなんだかとっても嬉しかったし誇らしい気持ちになりました。

この前、かいちゃんと二人ででた番組でも結構爪痕を残していたみたいで、神宮寺くんの起爆剤にはならないけれど、飾らない面白さが少しずつ少しずつ世間の人たちにも伝わってるのかなーって思いました。神宮寺くんのペースで走ってる感じ、私はすごく見ていて安心するし、途中で見るのやめちゃったけど、心にポッと明かりがともったような感覚になりました。この人を応援していてよかった。これからも、ずっと安定して応援はもしかしたらできないかもしれないけど、長い目でずっと見ていられたら幸せだなって思います。そう思わせてくれる神宮寺くんがやっぱり世界一素敵なアイドルです。

考える力

私には人より大きく劣っているところがある。

何かを思考することや、想像力を働かせる力が圧倒的に弱いのである。

今、実務実習を行うために薬局に行かせてもらっているのだが、同時期に私ともう一人、他大学からの女子学生も一緒に実習している。

自分の考える力の無さは、学校生活(倫理の授業のグルディスとか)でも感じることはあったものの、複数人グループだと誰かが何とかしてくれるので、何となくやり過ごしてこの事実から目を背けてきた。

患者背景を元に、プロブレムリストを作成し、指導プランを立てる練習をしたのだが、そういうこれという明確な答えのない自由な発想を必要とするという問いかけに対して、私の脳みそは急に微動だにしなくなる。俗にいう、考えているフリだけの人、になってしまうのだ。考えたいのに、どうにも頭が動かない。思考停止状態である。

一方でもう一人の女子学生はどんどんアイデアを出していく。私の出来たことはほぼそのアイデアタブレット上にデータとして入力するのみである。

あくまでも事実として、この子の大学は偏差値だけで比較したら私の大学とは20くらい差のあるところだ。それでも思考力はこの子の方が遥かに上を言っている。薄々分かっていた事とはいえ、このような場面に直面すると愕然としてしまう。

また、うつっぽい状態にあるのも理由としてはあるのかもしれないが、頑張って周りの人と会話を続けることが今は困難だ。そもそもこのように思考力が並以下で話題に乏しいし、自分の話の切り出し方が変とかずれているように思われるような気がしてしまう。この子も普通に良い子だからもっといろんな話をして仲良くなりたいのに、怖く自分の殻にこもってしまって、て話が続かない。情けない。

就活やそのあとの働く未来を想像しているうちにこのままやり過ごすことは出来ないと思い始め、この問題に向き合おうという話に至ったのである。

大学に入るまでは勉強以外に頑張った経験が圧倒的に少ない。大学受験までの勉強は、形式通りに答えを導き出せば点数が伸びる問題が多く、分からない問題があったらすぐに解答を見て納得しての繰り返しのように思う。答えのない問題に思考することは面倒なことという認識で生きてきたツケが22年目にしてやってきたのである。かくいう形式に当てはめる問題も、大学に入ればレベルが上がり、付いていくのもやっとだったし、授業中に考える時間があっても友達任せで自分で考えることを放棄していた。(統計の授業や小テストなど)そりゃあ、バカにもされてる気がしてくるわけだ。

幼少期まで話をさかのぼると、私の母親は勉強以外の邪魔なものは排除するように何でも先回りして子供に苦労させまいと奔走する母親であったように感じる。結果として所謂高学歴は手に入れられそうなわけだが、人間らしい生活を営むための思考力は人並み以下だ。

思考をこのように目に見えるようにアウトプットすることで、少しでも改善できればという願いを込めて、今日は書いてみました。

口だけ高貴な大人たち

今日はバイトの後輩くんと銀座の小洒落たカフェへ。

会うたびに、世の中顔ですよね、から始まり、お酒には酔わないけど「お酒飲まない自分」に酔ってるので飲み会にいる人全員酔っているという訳の分からないナルシスト持論(本人は意地でもナルシストと認めないが)を永遠にぶちかましてくるネジが100本くらい外れたやつだ。皮肉にも顔は偏差値65くらいはあると思うので、とんでもない自己愛を矯正したらモテると思うのに…といつも言ってるのだが本人楽しそうだから別にいいかという気になる。むしろ私にとっては異常なほどの自信が羨ましくもある。

それにしても、どうして私の周りにはどいつもこいつも頭のおかしい人ばかり集まるんだろうか…。でも自分のことを話すのはどうにも苦手だし、いざ話してみるとちょっとメンヘラチックな暗い話に引きずり込んでしまいそうな気がするので、相手が勝手に自分のことを話してくれる人だとこっちにとっても都合がいいのだ。

 

小さい頃から、世の中の事象を見下す癖がついていた。周りの大人たちが世の中で起こる事件や人を批判することが多く、自分たちがとても崇高な者のような口ぶりで話すことが多かった。小さい頃の私は、周りの大人たちがとても偉くて、それに比べて世の中が愚かなんだと思っていた。私の周りにはすごい大人がいる!私は人と違うんだ!という勘違いも甚だしい優越感に浸っていた。小学生のころまではその優越感だけで大人たちに認められるべく頑張れたし、結果、優等生でいることが出来た。でも、良い子の仮面はそう長くは続かない。良い子は都合の良い子、の略称であったと今は分かる。ありのままの自分でいることが怖いし、もはやありのままの自分がどんな姿なのかすらもさっぱり分からない。

よく「擦れてなくて良いところのお嬢さんぽいし、実際そうだものね!」と母や祖母に言われる。小さい頃から言われ続けてきて、小さい頃はそれが誉め言葉だと思って嬉しかったし、他の家庭のことは違う、と思っていた。でも今は違う感じ方をする。擦れてない=人生経験の浅い世間知らずな子、とも言い換えることが出来る。実際私は失敗や挫折の経験があまりにも乏しいし、それが大きなコンプレックスとなっている。母にも「あなたは挫折ってものを知らないわよね。」と言われるが、過保護な母にも責任があると思う。失敗しないように安全を強いてきたのはどこの誰なのか、きっと自覚はないんだろう。

友達との会話

今日は東京駅でインターンシップに参加した。人生初のインターンシップだ。とは言っても有給でも長期でもない、たったの3時間、ほぼ人事部の方の説明を聞いて最後1時間ほど座談会をして解散、というなんとも初心者に優しいプログラムであった。小さな一歩を踏み出せたという意味では当たりくじだ。最初、部屋に入ったときに真ん中のテーブルに置いてあったのは2セットの資料。結構誰もが知る大き目の企業だったので、まさかこの就活時期に2人なわけ、と思ったのも束の間、本当に2人だった。

てっきり大人数いるものだと思っていたから、喋る心の準備もほぼなく、最初は逃げたい気持ちもあったが、先週の企業ブース説明会で話していた人事の方が顔を覚えていて下さり、温かく出迎えてくれたのでちょっと頑張る気力が湧いた。結果、逆に自分の意見を言う練習の場にもなったからよかったと前向きに捉えよう。

一人暮らしの為の住宅補助が出ること、キャリアプランで様々な挑戦をさせてもらえること、年間の休みが多くオタ活しやすそうなこと(笑)、育児休暇の制度が充実しており女性にも働きやすいこと、普通の薬局ではできないような健康サポートが実現可能なことが特にこの企業のいいなと思ったところである。

今日行ってみて、もっといろんな企業のことを知りたいと思ったし、人事の人に顔売りしておくのは私みたいなコミュ障には案外良い戦法かもしれないなと思った。

やっぱり、小さい頃から活字にはとても救われてきているから、医療系の出版社もいいかもしれないなと思った。医療×文章を仕事に出来るのは、とても魅力的に映る。もちろんそんな単純な世界じゃないのかもしれないけど、少しずつ自分がやりたいことが見えてきたのも小さな一歩。でも逆に、私の唯一の逃げどころである活字を仕事にしたらプライベートとの切り離しがうまくいかなくなって悩んだ時行き場がなくなってしまうのではという不安も過る。あらぬ不安を抱きやすいのも私の癖であろう。

 

中高一緒だった友達と急遽、神保町で会うことになった。当日急にお互いに予定が合ったから、と言って何の遠慮もなく気軽に落ち合える友達がいることは心の支えだ。

神保町はとっても素敵な町だった。とにかく至る所に古本屋さんがある。本の街、という響きだけで今の私の心はワントーン明るくなった。特別古本に興味があったわけではないが、友達に言われるがまま立ち寄ったお店にドル誌が何百冊と並んでいた。もうそこは天国以外の何物でもなかった。今でもおなじみのジャニーズ誌5誌がほぼ創刊からある。ビニールが丁寧にかけられていて、中身を見ることは出来なかったが、表紙を眺めるだけでその時々のCD発売日が近いグループやドラマでタッグを組むコンビなど、時代を感じることが出来た。申し訳ないけど、イノッチのソロの表紙の時の写りが悪すぎて、どうしてこれを表紙に採用した???と10秒くらい考え込んでイノッチに同情してしまった。6人時代のSMAPや9人時代のNEWSの表紙も何冊かあって、本に穴が開くくらいガン見した。あと、TOKIOって元々長瀬くんじゃなかったの??一人知らない顔の人が写ってて、これ、長瀬?いや顔ちがくね?と散々言い争っていたのだが。知らない世界がいっぱい広がっていると同時に、私がドル誌を買い始めた2010年末あたりのものも置いてあり、懐かしさに震えた。あの時は毎月5日と20日が楽しみで楽しみで間の半月は片方を死ぬほど読み込んでたな~~嵐とB.I.Shadowに出会ってなかったらこんな感動もなかったと思うと感慨深いね。

お昼はすき家のアラビアータ牛丼なる奇妙なものを食べた。変なところで冒険心が芽生えるのである。結果、とっても美味しかったです。企画した人すごいな(笑)こんな風に安くて美味しいものを遠慮なくお昼ご飯にチョイスできるのも幼馴染のいいところ。普通友達とごはんってなると少し気合の入れたところに行きがちでチェーンは避けがちだけど、この子とはいつもこんな感じだ。この前、銀座で遊んだ時もご飯はサイゼリヤでした。逆に銀座でサイゼってちょっと邪道で良くない?

 

この子との会話で改めて気付かされたことがある。なぜ、私が本を好きか、ということだ。

家族との関係がうまくいかず、人間関係もうまく作れない私は一人で悶々と悩みを自問自答することが多いのは以前のブログをを見てわかってもらえると思う。考えることは人間の生きる上で大切なことだとは思うが、自分の中に答えがない問題を永遠と解き続けることは単純に疲れるし、結局何も生み出さない。それどころか、悩みが悩みを呼び、より頭の中が複雑化していき、ひたすら消耗戦となる。そこからいったん思考を切り離してくれるのが読書の役割である。本の中の世界観に浸れば負の思考のループから脱出できるだけでなく、時に悩みのヒントとなるような文章に出会えることがある。視界がぱっと開けるという感覚になることは稀だが、思考の癖を改善していくには日々の小さな積み重ねが大事だという。この小さい一歩を担ってくれるのが読書である。

また、今の私の精神状態だと誰かと会う約束をして予定に追われるように生活することは極めてストレスである。その点でも読書が大活躍する。読書は私をいろんな世界へ連れ出そうとしてくれる。知らない世界を活字を通して知ることが出来る。でもそれはあくまでも想像上での体験に過ぎない。私は実際に目で見て確かめたいという気持ちになる。あくまでも読書はきっかけづくりに過ぎないのだが、ヴィレバン下北沢店に出向いたのも「であすす」がきっかけだった。作者のヴィレバン愛が強すぎて、こんなにも面白い作者が心酔するヴィレバンとは一体どんなところなのだろうか、この目で確かめてやろうじゃないか、という気持ちになった。また別記事でも書きたいと思っているネタだが、ヴィレバンが生み出す、不完全なものを当たり前のように受け止めてくれるような空気感に強烈に魅せられてしまった。私の軸が1つ見えた瞬間でもあった。

結構なボリュームを書いて疲れてしまったが、最後にもう一つ書きたいことがある。

元々出不精だった私だが、今は家にいることで家族と物理的な距離が近くなってしまうことが一番のストレスであることを何となく理解してから、毎日外に出るようにしている。外に出てもやることないな~と思っていた以前とは違い、読書をすることが目的になって、外に出ることが出来ている。

親と物理的にも心理的にも距離を置くこと。今はもしかしたら私や両親にとって過渡期なのかもしれないと思った。帰宅しても母にその日あったことを何も言わず口をつぐんで部屋でこのようにブログを書いていることは、私の自立の為、と思ってやっていることだけれど、もしかしたら母にも自分の人生を生きてもらうために必要な時期なのかもしれない。都合のいい話かもしれないが、そう思えると私の今の行動に意味があると思える。視野が広がるしいいことが多い。多分、人生に無駄なことはないって、誰かが言ってたから、今はそれを信じてみよう。

大学のカウンセリング

今日は大学のカウンセリングルームに行ってきた。若くて可愛らしい先生だった。ただ今の現状をひたすら吐き出して、聞いてくれる、それだけでとても安心するものだ。なんせ、家で母親に悩んでることを言ったところで強くなれだのおかしいだのしか言われないのだから。

昨夜、現状をどうにかしたいという一心で、母に今自分が思っていることをほぼすべて打ち明けた。本当は「あまり元気がないから部屋に籠らせてほしいこと」「私の部屋に入るときはノックをして入ってほしいこと」の二点を伝えるつもりだったが、母が話しかけてきた勢いでぶちまけた。

結果、今の時点では分かりあえることはなさそうだと思った。

思ってることを言ったら家が崩壊すると思うって前置きした後に、母は崩壊しないよって言ったけれど、話し終わった後にぽつり「ママ出ていこうかな。」って呟いた。まさしく崩壊の兆しだった。言ってることがブレブレだ。

ただ、聞いて、辛かったんだね、ごめんね。ってその一言が欲しかっただけだった。ぶたれて痛かったことや、物が飛んできて恐ろしかったことなどが最近よく思い出されて落ち着かないことなど、トラウマになっていたから、それをただ受け止めてくれれば良かった。いつだって母は話は聞いてくれるものの、じゃあどうしたらいいの?という解決策をいち早く見出そうとする。どうしたら私のこのもやもやが晴れるか分かっていたら私だって実践してるよ!と思う。よく言えば行動派、悪く言えば、行動次第で人は変われるという根性論の持ち主だと思う。そのくせ心配性だから、自分はなかなか行動に移せないように私には見える。(別居の件しかり)

あと、母が仮に解決策を知ったとして、また私の前に早回りして私の問題を片づけたら、また私の無力感が増してしまう気がしている。その点でも、やっぱり聞いてくれるだけで良かった。感情に寄り添ってもらうという経験が乏しすぎて、他人の気持ちも頭で考えてしまう癖がついてしまったのではないか。結果、人間関係を築くということは私にとって神経をすり減らす作業になっている気がする。

 

お風呂に入りながらよくよく考えてみたら、今まで20年以上、家族の期待を一身に背負いながら、たまに反抗することはあっても結局従順でいる、聞き分けのいい良い子ちゃんでいて、馴染めない学校という集団で孤独と戦って、ここまで体がおかしくならなかった自分を褒めてあげたいくらいだった。大きな成果を上げる力はなかったけど、こんな異常な環境でぐれなかっただけマシぐらいに思ってほしい。(自分くらいしか自分を褒めてやれないのでたまには許してください)

心理士さんにも言われたことで気づいたことは、「自分の考えで現状を変えようと行動する力はある」ということ。行動力はあるが継続力はないから、今後身につけていけたらいいな。

 

 

恐ろしい思考の癖

昔から優等生だった。

他人と競争させることが大好きな私立の小学校に入ったこともあり、常に競わされる。そこで別に闘志を燃やし続けなければ苦痛じゃないのかもしれないが、無意識に親を安心させらる優等生であることを求め続けた。結果、大学に入って何事にも無気力になるわけだが。

何かを成し遂げなければならない、何か肩書がなければ意味がない、資格がなければならない。これらに拘らなくても大丈夫、と頭では分かっているつもりでも、何もない自分が嫌で新たなものに手を出しては上手くいかず、空回りして、疲弊する。特に今の時代、SNSなどが発達していて、普通に生きていれば知りえない立派な肩書を持つ人を多く目にする。自分には何も関係のない人だとはわかっていながらも、やっぱり何もない自分と比較してしまう。不幸な癖である。

 

バイトだと嘘をついて外出し、最寄りのターミナル駅をほっつき歩くのは虚しさもあった。あったかくておいしいご飯を求めていないと言えば大嘘になる。けれど、一度ついた嘘を取り繕うほど見っともないことはないから意地でも普段バイトが終わる時間まで帰らなかった。

22時までやっている本屋さんでいい出会いがあった。今日発売の毒親持ちの女の人のエッセイ本だ。

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立ち読みで3分の1くらいは読んだ。本当はやっちゃいけないことだがなんせお金がないから許してほしい。

中高一貫校の女子校という点や、母親がヒステリックな点はうちとそっくりだった。早乙女さんは父親も暴力的だったが、うちは無機質な部分は異なっていたが。最初は兄弟仲がいいが、大きくなるにつれてお互いに余裕がなくなり、やがて理解者でなくなるという部分は共感した。

本屋の前に、英会話に行った。昨日は品川駅まで出たものの、どうしても行く気力がわかず今日に振り替えた。1コマキャンセル待ちで結局受けられなかったが、今の精神状態には都合がよかった。外人で一見スタイルもよくてかっこいいが、髪の毛が少々ボサボサで多分この人普段はひも気質なんだろうなと勝手に思いながら、レッスンを受けた。3人のクラスだったが、他の人たちが全く発言しないものだから、必死で私が率先して答えた。そしたら授業終わりにヒモ外国人に「good job! Maruko!(←私の名前)」って褒めてもらえてこんなんでイケメンに褒めてもらえるんだ、とちょっと浮かれた気分になりながら教室の入った駅ビルを去った。今日はレッスン行ってよかった。

時系列めちゃくちゃだけど、このレッスンの後、ブックオフに行って、浪費図鑑を買った。ずっと気になってたから大事に読むことにしよう。

 

傍から見たらしょうもない一日だけど、ちょっとずつ前進してる、そんな気持ちになれた一日でした。あ、大学のカウンセリングルームに電話して、明後日予約を取りました。あと、継続的な人づきあいが出来ないなら、派遣のバイトで食い繋ぐのはどうだろう…とぼんやりとお風呂で考えていました。少しずつ、状況を変えていこう。